古地図を見て千里丘陵に思いを馳せる〜その1

JUGEMテーマ:大阪

 

 

阪急沿線の沿線価値向上を願いながら細々 とブログを更新しつづけて半年ちょっと。

 

神社仏閣のエントリーを上げることもありますが、ふと北摂地方の成り立ちに思いを馳せることがあります。神社仏閣があるということは、大昔からその場所に人が住んでいるということ。昔の北摂地域はどんなものだったのでしょう?

 

 

便利な時代になったものです。明治時代末期の地図を、オンラインで見ることができます。

今昔マップ on the web(http://ktgis.net/kjmapw/index.html)より地図を引用しています。

 

 

ハマヤの高級インスタントコーヒーを飲みながら(笑)、明治時代の地図を見ていてふと思いました。

 

近代の北摂地域の発展とは、千里丘陵の開拓そのものでは??

 

 

 

明治42年測量の大阪の地図です。

 

人工衛星もパソコンもない時代に作られたものと考えれば、凄いものです(それを電子化するのも凄いけど・・・)。

 

 

 

もともと狭い大阪平野ですが、淀川の北側に、まるで目の上のたんこぶのように千里丘陵があります。昔は空き地も多かったので、あえて千里丘陵に住み着こうという人は少なかったでしょうが、市街地が大阪郊外に発展していくにつれこの丘陵地帯(森)は障害物にもなりえます。

 

 

 

千里丘陵周辺を少し拡大してみます。

 

そこに、現在の街の場所をマッピングしてみます。

 

 

赤い点が千里丘陵内の主要な場所、

緑の点が明治末期に既に存在した(!)駅、

青の点がその他現在のランドマークです。

 

現在の阪急宝塚線・箕面線(緑の点)が既に存在したことも凄いですが、それについては別のエントリーで取り上げます。

 

 

 

明治末期で言えば、千里中央なんて何にもない山の中でした。

 

それが、今や日本の大動脈である中国自動車道(とそれに沿った大阪モノレール)という東西軸と、大阪都心部へつながる北大阪急行・大阪メトロ御堂筋線、新御堂筋という南北軸が交わる交通の一大拠点となり、その周囲には無数のマンションや住宅地が広がっているなど、明治時代の人は想像もしなかったでしょう!

 

 

そのターニングポイントになったのが、1970年の大阪万博であることは間違いありません。万博の開催とともに、千里丘陵の開拓が進み、交通網の整備と宅地化が一挙に進みました。つまり、大阪は1970年の大阪万博によって、千里丘陵という都市資源を手に入れたのです。

 

 

遠景7.JPG

咲洲庁舎から見た千里丘陵遠景

 

 

現在数十万人の人が暮らす千里丘陵なしには、現在の大阪はなかったでしょうし、日本の成長にも少なからず影響したかも知れません。万博が北摂地域発展の転機となっていると考えると、やっぱり「太陽の塔」は現代北摂地域のソウル・モニュメントと言えるでしょうね。

 

 

また、この地図を見ていると、「北大阪急行」という会社は、まさに千里丘陵を切り開くために作られた会社なんだな〜としみじみと思います。北大阪急行は、現在阪急電鉄の子会社ですが、もともと採算性の問題から阪急と大阪市は新線建設に乗り気ではなかったようです。万博の開催決定後、国の主導で阪急と大阪府の出資により建設されることが決定がされました。ムダなインフラになるどころか、今は「大阪の真ん中を走ってる」ってことになってます 笑

 

 

 

高度経済成長期の1970年とは時代が違いますが、2025年の大阪万博も大阪が新たな段階へステップするための橋頭堡となって欲しいものです。

 

 

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